アメリカ鉄道史
北米、特にアメリカと言えば自動車の国と言う印象が強く、特に蒸気機関車に関しては映画やディズニーランドで見られる煙突やランプ等に独特のデコレーショーンを施し、ベルを付けた比較的小振りな物が、典型だと思われがちですが、実際は広大な大陸の貨物輸送の担い手として、車のアメ車に抱くと同様、大量に石炭や重油と言った燃料を消費する超大型機が数多く存在し有名です。
機械的にもギヤードロコと呼ばれる、シェイ・クライマックス・ハイスラー等の全輪駆動のモデルやベーカーバルブギヤ等の弁装置はアメリカ型の機械的特長です。又、ミカド(1D1)型と呼ばれる車輪配列を持つ汽車は我国を代表する蒸気機関車ですが、そもそも初期の物はアメリカ製であり、フランスも戦後復興(マーシャルプラン)の為にライト・ミカドを大量に供給された事から機関車の国でもあった事が分ります。ちなみにフランスはそれを典型的なフランス型にデザインし直し、今でもSNCFを代表する有名機(141R)としていますが、米仏関の友情の形を現す存在として大変興味深い機種だと思います。
東海岸域での発展、そして西へ
“親指トム号(TOM THUMB)”と荷馬車との競争。いかにもアメリカらしいこうした微笑ましいテスト運行によって、アメリカの鉄道史はその幕を切って落とす。1830年、アメリカ初の長距離鉄道運行会社となるボルティモア・オハイオ(BALTIMORE&OHlO)による実験であった。当初のアメリカ鉄道は、東部の海岸域における狭い範囲でのものだった。歴史の古い主要な都市を縦横に結ぶことから始まり、やがて小さな町にも通じるようになる。そのうち沿線に、幾つもの町が雨後の筍のように発生する。郵便局も点々とできていく。これが最初の鉄道を囲む風景だった。オハイオ川の渓谷地帯より西、いわゆる西部への進出の先陣を切ったのもB&O鉄道だった。1852年、B&Oはウエストパージニア州ウイーリングまで開通。これを契機にシカゴやミシシッピー川流域へと各社の進出が進んでいく。やがてその沿線を支配したのは、ニューヨークセントラル(NYC)鉄道とペンシルパニア鉄道(PRR)の二社。この2社は20世紀特急、ブロードウェイ特急といった列車をともにニューヨークーシカゴ間に走らせ、顧客獲得のためのサーヴイス競争にしのぎを削ることになる。このようにアメリカの鉄道会社は、比較的自社テリトリーが定まっていた欧州系の鉄道とは経営地盤が異なるところも特徴であった。
夢の偉業、大陸横断鉄道建設
1849年、カリフオルニアでのいわゆる“ゴールドラッシュ”により、アメリカ人が西部を目指す思いは頂点に達した。東と西とを鉄道で結ぶことは、まさにアメリカの夢と言えるものとなった。「大陸横断鉄運」−世界の鉄道史に刻まれるこの偉大な事業のスタートは、南北戦争真っ只中の1862年、時の大統積エイブラハム・リンカーンによって認可された。西部からは中国の移民を中核とする労働者に敷設されてきたセントラルパシフィック鉄道が、東部からはアイルランド系移民を中核とする労働者に敷設されてきたユニオンパシフィック鉄道とが、それぞれに接近。そして1869年5用10日、この二つの鉄道は、ユタ州グレートソルトレイク北方の砂漠プロモントリーポイントで歴史的な接合を果たした。
双方の鉄路を最後に連結した犬釘は“GOLDEN SPIKE”呼ばれ、文字どおり黄金製の特別のものだった。そこには次のような文が刻印されている。「この鉄道が世界の二つの大洋を連結するごとく、我が国(UNITED)の団結(UNION)を永続させたまえ」。この事業を認可したリンカーン大統領はすでに4年前に暗殺され、この記念すベき偉大な日を知ることはなかった。
大陸を横断する長距離サーヴィスヘ
アメリカの鉄道はここに至り、顧客獲得のために大陸横断のサーヴィスを競うというスケールの大きな時代へと突入していった。アメリカ型機関車が欧州型よりキャプ部が広く居住性も良く、大きな照明ランプとカウキャツチャーを備えているのは、広大な国土を日夜連続して長時間走らなければならないという必要性から導かれたものなのである。
シカゴからロスアンゼルスまでを結ぶ路線は、サザンパシフィック(SP)鉄道やユニオンパシフィック(UP)鉄道が先陣を切っていたが、さらにこれらの路線と平行にサンタフエ(SANTA FE)鉄道も開通した。世界最大のUP’S“BIG BOY”などは、この大陸構断のために誕生した。まさに鉄道華やかりし時代の到来である。近い将来、その栄光の座を航空機に譲らなければならなくなるなど、まだ誰も想像だにする余地はなかった。
1930年代には、SPのファーストクラス客車“デイライト”が、ロスアンゼルスからサンフランシスコを経て、北のシアトルまで運行を始めていた。
もうひとつのロマン、ナローゲージ
UP、SP、SANTAFEといった巨大鉄道会社が大陸構断競争に明け暮れていた頃、本線から四方八方へ積分かれしていった、(あたかも支線のような)ナローゲージの短い鉄道があった。これらは、横断鉄運の周囲に点在する小さな集落や町を横断鉄道と結ぶ役割を果たし、またペンシルパニアの鉱山からオレゴンの集積場へ鉱石を運搬する路線としても活躍していた。
ネバダのバージニア・トラツキー(VIRGINIA & TRUCKEE)、コロラドのデンバー・アンド・リオグランデ(DENVER & RIO GRANDE)、リオグランデ・サザン(RIO GRANDE SOUTHERN)、コロラド・アンド・サザン(COLORADO &SOUTHERN)。
これらアメリカのナローゲージも、ファンにとってはほのぼのとしたロマンが香る愛すべき鉄道たちである。
いつの時代も小型産業が巨大産業に依存する例にもれず、これらの鉄道会社も小さなポイントや路線に適応したタンク機関車、あるいはナローゲージ特有のシエイ、ハイスラー、クライマックスといったギア型式機関車の供給を、ポールドウィン、ライマ、ブルツクス・アンド・ポーター社などに頼っていた。西部劇映画によく見られるような、アメリカ製機関車の独特の駆動型式と外形は、ここから生まれてきている。
栄光の歴史の閉幕
アメリカ鉄道の輝かしい栄光の歴史は、1950年代でほぽその幕を閉じる。蒸気機関車の全廃は、アメリカの鉄道の斜陽、終焉を予告するものでもあった。現在では、コングロマリットのアムトラック、Conrailが政府の助成金によって営業している他、一部の独立系の会社が何とか持ちこたえているに過ぎない。しかし、微々たるものとはいえ,、我々は現在でも保存機関車の回復蘇生を望むことができるし、その勤勉な努力は感謝に値するものと言わなければならないだろう。