History of Japanese Railway 英国鉄道史 フランス鉄道史 ドイツ鉄道史 アメリカ鉄道史 トイ・トレイン及びライブスティームの歴史 車輪配列

ドイツ鉄道史

ドイツの街を歩くと、この国は神聖ローマ帝国以来、九百年以上に渡って中小王国や都市国家の連合だったんだ!と言う実感を得る事が出来ます。

カソリックとプロテスタント文化が融合し有った文化と、連邦と言う名にふさわしい地域毎、微妙に異なる個性が、ハーモニーを奏でる国が生み出した機械。その結晶の一つである蒸気機関車も、使われた地域性や生み出された工場のルーツによって設計思想が180度異なるのは大変興味深いものが有ります。美術と技術をここまで融合・昇華させる事に成功した結果、ドイツ製機械への信仰に近い信頼は醸成されたのだ、と感じるのは私だけでしょうか?

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強国プロイセンの台頭

英国に遅れること10年、1835年にドイツの商業鉄道はスター卜を切る。ドイツという国は、19世紀後半にプロイセンによって現在の形態の原形が統合形成されるまでは、いくつもの連邦や都市国家の集合体であつた。したがって当初の鉄道も、各連邦独自の官営、あるいは限られた領土内に私鉄の敷設を認可するというスタイルでその事業が推進されていった。最大勢力はやはりプロイセン(プロシア)であり、機関車製造という面においても、中央(ブランデンブルグ)、北部(ハンブルグ、ポメラニア)、東部(シレジア)地域の各諸国に多大な影響を与えていた。

使用されていた機関車は、例えばT−18(後のBR78、フランスのSNCF232TC)に代表されるように、構造は比較的シンプル、しかし耐久性に優れて壊れにくく、確実・簡便な操作性を有するものであつた。当時の技術水準ではまだ相互部品の互換性を求めるのは無理があり、単式二気筒、統一形状形態のボイラーなど、耐久性に優れた簡単な機構のパーツをより多く規格化することが要求されていた。1866年、プロシアは対オーストリア戦争においてドイツの国家群の覇権争いに勝利、さらに1871年にはフランスに勝利し、事実上ドイツの統一に成功する。これを機に、プロシア型の機関車は宰相ビスマルクの思惑で全ドイツヘと広がっていった。

フランス型機関車の活躍

ドイツ帝国統一は実現したものの、依然として9つの旧各王国は思い思いに独自の鉄道を営んでいた。それぞれプロイセン、メクレンブルグ、オルデンベルグ、ザクセン、ヘッセン、バイエルン、バーデン、ウユルテンプルグ、アルザスーロトリンゲン国有鉄道と称し、機関車もフロシア型一色になってしまうということはなかった。特に南ドイツ地域は地形的にも山や丘か多く、政治・地理的にも隣国(北部ドイツ連合及びオーストリア)との確執かあったため、フロシア型の(どちらかと言えばイギリス型に似た)運用効率重視の機関車より、牽引力に優れ、燃料効率の良いフランス型機関車の原理が多く用いられた。そこから生まれた各鉄道会社オリジナルの機種は、実際に実用性も高く、エレガントなスタイルの傑作と呼ぶにふさわしいモデルが数多く世に出ている。

たとえばバイエルン(パパリア)固有鉄道のS2/6型。この機関車は1907年に時速155kmという当時の蒸気機関車の公式世界最高速度記録を樹立した。1台のみ生産された機種であり、18年間その美しさを保ちながら活躍し、現在はニュールンベルグの博物館でその勇姿を見ることができる。また同じくバイエルン鉄道のG t2 4×4(BR98)も傑作の名に恥じない名機種としての活躍を果たした。

完全国営化、鉄道新時代へ

第一次世界大戦後、アルザス−ロレーヌ国有鉄道がフランスに割譲され、残りの8つの国鉄は1920年、政府により帝国鉄道として統ー、名称もドイツ国有鉄道公社(DRG/DEUTSCHE REICHSBAHN GESELLSCHAFT)となった。これは国から独立した法人組繊ではあったが、国が間接的に運営する企業というのが実態であった。その後1937年、ナチ政権の下で完全な国営企業となる。名称はドイツ国有鉄道(DR/DEUTSCHE REICHSBAHN)。第一次世界大戦前は不可能であった機関車の規格統一、技術的躍進など、ここからドイツの鉄道は新たな時代に突入する。

国家の命運を賭けた決死の復興

8つの国有鉄道から多種多様な機関車を引き継いだものの、それらは理想の状態からはほど遠いものだった。数少ない程度良好の機関車は、戦後賠償の一部として先勝国に引き渡された。機関車を修復しようにも各機種の部品互換性が全くないというありさま。ドイツ国有鉄道公社の苦難はここから始まった。

緊急かつ最重要の課題は、設計製造面で規格化された制定機関車を開発すること。同時に保守・修理の面で徹底した合理化体制を整えることであつた。大打撃を受けた社会経済のもとで、過酷な賠償責任を果たしつつ自国を再建していく。そのためにも鉄道の復興は急務を要する国家的命題であった。やがてこの努力は、“DR 01(制定01、BR 01) ”から始まる一連のシリーズとして、大きく実を結ぶこととなる。貨客両用の傑作と謳われた“44”、近距離用タンク型の“64”や“86”など、後世に名を馳せる名機種が、この時代に誕生している。ただこれらは他のドイツ型機関車との区別がつけにくく、外観色も黒と赤の上下塗り分けでかつてのカラフルな趣きはない。これは決してプロシア的発想が南部的発想に凱歌を上げたわけではなく、前述のような背水の陣に立たされたドイツの国家事情によるものがあったのである。

世界トップレベルの技術力ヘ

その後もドイツ鉄道の接術的躍進は続き、第二次世界大戦を迎える前あたりの機関車開発技術は、当時その面で世界のトップレベルにあったフランスを一時的にでも陵駕したと言っても過言ではない。イギリスのA4型に次ぐ速度記録を出した流線形の“05”、蒸気モーターと呼ばれる2つ(左右4つ)の動輪軸に90°∨型2気筒シリンダーユニットを搭載した“1910”など、技術的にユニークかつ先鋭的なモデルが次々に輩出されていった。

ただこの技術躍進が共に実用的なものであったかと言えば、それには疑問を投げかけさるを得ない。それはあくまでヒットラー政権下のドイツ帝国の国家高揚の宣伝媒体の域を出なかったというのもまた事実である。当時は既に陸上交通の主役は自動車に代わりつつあったし、鉄道においても、ディーゼル化や電化の波は避けようがなかった。第二次世界大戦時、燃料不定のトラックを補う戦時型と呼ばれるBR52などの活躍が、ドイツ蒸気機関車の最後のわずかな栄光であった。

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