イギリス鉄道史
今ではBRに統合されている英国鉄道史は、分割民営化をして行った日本とは逆に、当に民営から統合国有化への歴史でした。始発駅も東京駅のように、全国へ向けての始発駅の様なものは、当初ロンドンに有りません(今は地下鉄で全て結ばれていますし、一部の駅は徒歩圏内に隣接していますが)でした。当時最大の鉄道会社でありブリテン島の西海岸沿いに北へ(スコットランド)向かうLMSは、ユーストン駅をメインにセント・パンクラス駅が、ライバルで東海岸を抜けるLNERはキングスクロス駅をメインにリバプールストリートやメリルボーンの各駅が始発駅となっていました。また、最もファナティックなファンが多く「神の素晴らしい鉄道」(God's Wonderful Railway)とも呼ばれていたGWRは、南ウエールズ地方など重要な産業地域を主にサービステリトリーとしており、パディントン駅。南部への新婚旅行やバカンスなどで利用され、イングランド人のアッパークラスには思い入れが強く、最も小さいテリトリーながら全イギリスの旅客輸送量の4分の1以上を運んでいたSRはヴィクトリア駅、及びウォータールー、チャーリングクロスの各駅を始発駅として、グレートブリテン島を東西南北に結んでおりました。サービスが重なり合う地域では、各社を代表するカラーに美しく塗装され、各社専属とも言えるデザイナーにより設計された特徴的なフォルムの列車が各々熾烈な顧客獲得競争を繰り広げ、それが鉄道の発展に寄与していたのです。
因みにホグワーツエキスプレスはLNERのキングスクロス始発ですが、映画では、汽車の色はLMSの特徴的な色であるクリムゾンレッド、形はベルペアボイラーを持つ典型的なGWR型となっていて、奇異な印象が残ります。・・・アメリカ人は自国の歴史にはconsciousなのですが・・・・
世界初の鉄道、その産声
「鉄道が英国を世界の覇者にした」 こう言ってもあながち過言ではない18世紀中頃まで「欧州の田舎」とさえ呼ばれていた英国が 産業革命時から第二次世界大戦時まで世界ーの隆盛を誇った歴史の背景には この国の鉄道の発展が大きく関与している。
当時の英国には大陸に見られたような道路網の発達はなく それは中世以前のローマ時代の軍道よりも荒廃した状態だったこのような状兄のなか まず着目されたのが運河建設である 英国はその温暖な気候のため 川が一年を通してほとんど凍ることがない 起伏が多くしかも軟弱 さらに貴族の領地内にあるという悪条件の重なる道路を整備するより 好条件の川を活用しようという選択は当然の帰結だったと言えるだろう
蒸気機関車の誕生、そして躍進へ
1806年 鉱山用蒸気機関技師てあったケルト人、リチャード トレヒシックは、ウットが考案した蒸気機関を小型化し 初めて鉄製レールの上を走らせることに成功した(後に彼の孫は 日本の鉄道開設の功労者となる)しかし一般に「鉄道の父」として名を馳せているのは 商業的に大きな成功を収めたスティーブンスン親子である ではなぜトレビシックは商業的に成功することができなかったのか。その大きな要因はレールにある。当時のレールは馬車鉄道用の鋳鉄製であり、蒸気機関車の重量には耐えきれなかった。数度の走行で交換が必要となり、経済的な負担が大きすぎた。いくら速くても、馬車鉄道利用の方が割安だったのである。強度的に蒸気機関に耐えうる鋳鉄の開発は、トレピシックの運行から15年後のこととなる(ちなみに現在のような鋼鉄製レールは、1857年英国のマシェツトにより開発された)。これに反してステイープンスンには時代が味方し、さらに出身民族が幸いした。支配民族アンプロサクソン出身のステイーブンスンは商才に長け、蒸気機関車を含む鉄道全体をシステムでとらえることのできる“鉄道技師”という職種を考案、世間はそれを受け入れた。
また1814〜15年には対ナポレオン戦争が勃発。軍用馬が必要とされることにより、馬の価格が高騰した。これに相反し、各地の炭鉱開発が進むことによって石炭価格が下降。時代はまさに蒸気機関車を求めていたのである。
ステイーブンスンは、この時代の流れに見事に乗った。1825年にはストックトン〜ダーリントン鉄道が商業的に成功。1830年には、前年のレインヒル競争(馬車と汽車との競争)の勝利に乗じ、リバフール〜マンチェスター鉄道を蒸気機関車により開業・運行することを認めさせた。まさに彼は産業革命の寵児であった。
技術競争過熱の時代
1835年、鉄道技師E.K.ブルネルを擁したグレートウェスタン鉄道(GWR)が2,140mmという広軌道で開業。英国の鉄道は激しい技術競争の時代へ突入する。ブルネルはステイーブンスンの標準軌道に対抗し、広軌適を採用する自らの技術的優位を立証することに心血を注いだ(当時の英国では、最高時速100km程度の技術競争は、機関車自体の性能兢争というより軌道幅の優位性兢争といった側面が強かった。このことは、英国の影響下で鉄道を敷設した日本やオーストラリアの軌道幅に多大な影響を及ぽしている)。
1848年、ブルネルは弟子のD・グーチに製作させた“グレートブリテン”で時速100km突破に成功。しかし同年、そのグーチのもとで働いていたT.R.クランフトンが、巨大動輪を採用した機関車を標準軌道で走らせ、時速126kmという記録を達成した。これにより、広軌道の優位性を示すというブルネルの夢はついえた。クランプトンの蒸気機関車はいわゆるクランプトン型と呼ばれる巨大動輪を持ち、のちの高速蒸気機関車の原形となっている。
標準軌道有利の定説はその後も変わることなく、グレートウェスタン鉄道も1892年には、当時総長275kmに及んでいた自社路線を、わずか3日間ですべて標準軌道に再敷設している。試行錯誤を繰り返していた英国の鉄道も、徐々にその姿を定着させ始めてきたのでみる。
その後もグレートウェスタンは(創業以来の伝統であるスピードヘの執念ゆえか)、蒸気機関車の速度記録を塗り変えている。1904年には、特別郵便列車用蒸気機関車“ツルーロ”が、平常運行時に最高時速163kmを達成(これは1907年にドイツ、バイエルン鉄道のS2/6が出した、当時の公認世界記録155kmをすでに適いでいる)。
この頃、高速運行による脱線事故が多発し、英国内の鉄道会社間でスピード競争は自粛されていたのだが、あまりにすさまじい技術革新の勢いを止めることは出来なかった。19世紀末から20世紀初頭にかけて英国の蒸気機関車鉄道は、まきに黄金期の熱気に満ちあふれ、技術的にもすでに完成の域に達していた。
歴史的傑作機の輩出、そして国営化へ
第一次世界大戦後、極度の経営不振に陥った英国の中小鉄道会社は、1923年、政府の指導のもとに4つの大会社に再編成された。規模の順に、ロンドンーミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS)、ロンドン・アンド・ノースイースタン鉄道(LNER)、グレートウェスタン鉄道(GWR)、サザン鉄道(SR)の誕生である。しかし経営を引き受けた大会社の経済的負担は予想以上に大きく、グレートウェスタンだけを除いて、各社の株は大暴落した。
経営苦難のこの時期は、しかし同時に高速運行用蒸気機関車の名機を数多く排出した時期でもあった。LMSの“ロイヤルスコットクラス(27)”やスタニエーの設計によるパシフィック型の“デユーチェスクラス(39)”、LNERのナイジェル・グレスリーが設計したパシフィック型の“A1クラス(22)”や、1938年に蒸気機関車の世界最高速度記録を樹立した“A4クラス”の“マラード”、GWRの“キヤスルクラス(23)”、“キングクラス(27)”SRの“キングアーサークラス(25)”、“スクールクラス(33)”など、最も英国的なスタイルを醸し出す機関車が次々に発表されていったのである。
第二次世界大戦が始まると、ガソリンの統制配給とともに鉄道も政府の管理下におかれ、収益はすべて国庫に収められた。その結果、1945年時点で各社の財政は破綻。やむなく1948年に英国国有鉄道(BR)が設立され、全社がここに吸収され現在に至っている。
この時に統廃合された路線のいくつかは現在もマニアの手で運営され、1968年に運行停止となった蒸気機関車も多くが修復されて大切に動態保存されている。