History of Japanese Railway 英国鉄道史 フランス鉄道史 ドイツ鉄道史 アメリカ鉄道史 トイ・トレイン及びライブスティームの歴史 車輪配列

フランス鉄道史

意外な事にフランスは、歴史的経緯から、日本以上に官権が強大であり、殆どの官僚は、戦前の東京帝大のように設立目的を明確にしたフランス国立行政学院 (通称ENA/エナ)出身者です。そう言った社会ですから鉄道も「そもそもSNCF(国有鉄道)有りき」と考えたのですが、元々は英国同様に、方面により6つに分かれていた私有鉄道会社がSNCFへ統合されて行った歴史を持っておりました。

しかしながら、米英のように良質の石炭産地が無く、ドイツとの国境地帯のアルザス−ロレーヌ地方(アルフォンス・ドーデの小説『最後の授業』で有名な地域です)が、その産地の一つであったため、領有権を激しく争った歴史的事実があります。

そう言った訳で、蒸気機関車の設計思想は米英のものとは全く異なった発想、数学の国の国民性を象徴した、良く言えば、「機械的」に計算し尽くされた高性能なものが数多く有ります。只それだけでは無機質的で冷たい機械になりそうですが、ミュルーズの博物館を訪ねる度に、自由の国、ファッションの国と言われるだけのセンスを感じさせる「美しい」デザインをまとっている汽車を見る事ができ、流石フランスと、唸らざるを得ません。

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高度な理論に導かれた初期鉄道

1827年、英国のストックトンーダーリントン鉄道の開業から2年後、フランスにも初の商業鉄道が誕生した。このときの蒸気機関車のボイラーには、仏技術者セガン発明の煙管が採用された。1837年に開業した路線はすでに複線化され、1,500mのトンネルを含むすべての区間が蒸気機関で運行された(当時、他国では勾配の急な区間はまだ馬力に頼るケースが多かった)。

そのシステムは、伝統的に数学に強い国民にふさわしく、非常に理論的で高等かつ複雑であり、見方を変えれば簡便で合理的経済的なものとは言いがたいものであった。ただこういった理論に重きを置く人々が敷設した初期の路線は、ひとつの鉄道学校としての意義も大きく、商業主義の一環として発展した英国の鉄道技術とは異なり、純粋に蒸気機関車の理念を追う典型的技術者を輩出していったのも事実である。

独立の精神を乗せて

英国や米国と同様、フランスの鉄道も産業革命という巨大なパワーに要請されながら、その成長を続けていった。ただこの国の鉄道の発展か特徴的なのは、それが国民一般の手による極めて自由なスタイルのものだったという点である。

フランス革命後約40年が過ぎ、(限定的な王政復古を許容しつつも)社会の主導権を握っていたのは、〜第三身分(商工業者)の者や知識人たちだった。彼らが革命時からの基本理念である「自由・平等・博愛」の精神を国中に伝えていくための有形の力、それが鉄道に他ならなかつたのである。

より近代化へ、6大鉄道の誕生

産業革命後は資本主義社会の急速な発展により、鉄道網は充実し、鉄道会社の数も飛維的に増えていった。ただ、路線毎に会社が異なるというフランス自由主義的な交通網形態は、国全体をスムーズに移動するという点では決定的な障害となった。

そこで1851年、フランス社会は、当時の独裁者ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)の指導の下、各社の統廃合を要請。数年間のうちに6つの会社にまとめさせた。所謂、フランス6大鉄道会社の誕生である。

この6社は、英国の鉄道同様、パリ市内に各々の始発駅を持ち、それぞれの塗装の違いが特緻的がある。即ち、ノール(Nord)駅を始発駅とする北部鉄道(NORD/栗色に黄ライン)、エスト(l'Est)駅からは東部鉄適(EST/黒に赤ライン)、リヨン(Lyon)駅からはパリ・リヨン地中海鉄道(PLM/オリープグリーンに赤ライン)、南部鉄道(MIDI)、サンラザール(Saint Lazare)駅からは西部鉄道(OUEST/黒に金ライン)、今はオルセー美術館となっている(オステルリッツ/Austerlitz)駅からはパリ・オルレアン鉄道(PO/灰色に黒ライン) がサービスを競い合うようになって行った。

世界をリードする先進技術

当時のフランスの鉄道技術力とはどの程度のものだったのだろうか。元来農業国だったこの国より、−般的に技術力はドイツの方が勝ると考えられがちである。確かに速度記録的には独英の機関車が自立ったものの、煙管式ボイラーに見られるように、フランスの蒸気機関車技術はその先進性において他国の追随を許さないものがあった。

高速を出すためには“止まる”ことが大前提となるが、19世紀末にはル・シャトリエが世界をリードするブレーキ技術を基本的な形にまとめている。また対燃費出力率という最も技術的に困難とされる命題にも、フランスは優れた解答を示している。フランス人技術者ジフアールとドゥグレーンが19世紀末までに、4気筒複式蒸気機関車を開発。P.O.の主任技師、A.シャプロンがこれを完成した(これには、当地の石炭事情が良くなかったという点も関係している。仏独間でアルザス・ロレーヌ地域をめぐる炭坑奪取戦争も勃発したほどで、いわば必要に迫られた技術開発でもあった)。

同じく石炭事情の悪かった南独のパパリアでも、フランス製マレー式コンパウンド(複式関節型)理論で開発された機関車(BR96)が採用された。これは北独のプロシア設計の同様目的で開発された機関車(BR45)より優れた性能を発揮し、フランス機関車技術の優秀性を如実に示している。

国有鉄道SNCFの誕生

20世紀に入ると、鉄道会社の統合が進んでいった。仏政府は北西部の数社の中小赤字線を買収した後、1909年西部鉄道(OUEST)を編入。国有鉄道(ETAT)を設立するに至った。さらに第1次世界大戦後にはアルザス・ロレーヌ鉄道を手に入れ国有化した。一方民間の方は、1934年に南部鉄道とPOが合併してPO−MIDIとなったため、大会社は4社となつていた。元来、鉄道を営利事業ではなく国家繁栄の手段と認識していた仏政府は、戦争中の経験や当時のドイツ政情も勘案した結果、4大鉄とパリ環状線を統合し、完全国有鉄道体制への移行を英断。1938年、ここに仏国有鉄道(SNCF−Societe Nationale des Chemins de fer Francais)が誕生した。欧州では最後から2番目の完全国有化であった。

旧4大鉄道と国鉄は、区域1(EST)、区域2(NORD)、区域3(ETAT)、区域4(PO・MID)、区域5(PLM)と呼ばれ、車体色は緑と赤ライン(いわゆるSNFC色)に統一。前端梁と炭水車後端部方形に固まれた数字でのみ細別できる仕様となった。

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