History of Japanese Railway 英国鉄道史 フランス鉄道史 ドイツ鉄道史 アメリカ鉄道史 トイ・トレイン及びライブスティームの歴史 車輪配列

日本鉄道史

蒸気機関車との衝撃の出会い

欧米で蒸気機関車が時速100kmの璧を突破した頃、日本に於ける陸上交通の主流は、まだ人の足と馬であった。欧米諸国における機関車発展の歴史とは異なり、日本の場合は、いきなり蒸気機関車の熟成した姿に遭遇するとこるから始まった。

1853年(嘉永六年)、九州佐賀藩士である本島太は、プチャーチン提督率いるロシア艦隊の旗艦バルダラ号艦上で、蒸気で走るという乗り物の模型を見せられた(この模型はアルコールを動力燃料に使用)。これが日本人と蒸気機関車との初めての出会いである(欧州では1840年代にブリキ製の鉄道模型か商品化されており、1850年代の米国では鉄道模型メーカーがいくつも栄えていた。まだ当時はゼンマイや小型のモーターなとは開発されておらず、鉄運模型はもちろんライブスチーム模型のみだつた)。

これに強い刺激を受けた佐賀藩は、1855年(安政二年)には自らの手で蒸気機関車と蒸気船の模型を完成させている。1854年には米国東インド艦隊司令長官ペリーか、時の政府であった江戸幕府将軍徳川家定に蒸気機関車の模型を献上した(こちらが初の出会いと思われている方も多いようだか、最初は本島太のほうである)。

こうして、日本においても蒸気機関車というものの存在か大きく脚光を浴び、鉄道開設の気運が盛り上がっていくことになる。

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英国の援助で初の鉄道開通

当時は西欧文明が、中国を中心とする東洋文明に圧倒的な勝利を収めた時期でもある。それに危機感を覚えていた明治維新以降の支配者層たちにとって、留学先で見た欧米の鉄運は、まさに圧倒的なパワーを感じさせるものであった。

日本が文化的に欧米に陵駕されてはならないというアイデンティティ重視の思想はあったものの、それでも鉄道はどうしても導入せさるを待ないものの筆頭として捉えられていったのは事実である。こうして欧米諸国の商業鉄道に遅れること約40年。1869年(明治二年)、明治政府は東京(新橋汐留)一横浜間29kmに鉄道を敷設することを決定。翌年着工し、1872年10月、我か国初の鉄道がここに開通した。当初の建設資金として英国から300万ボンドを調達したということもあり、鉄道技術、また運営・運行業務全般、さらに使用する機関車自体に至るまで、全面的に英国に頼ってのスタートとなった。

この事実は我が国の鉄道軌道幅の決定に微妙に関係している。日本の鉄道軌道幅がいわゆるスタンダードゲージ(現在のJR新幹線で採用されている「国際標準軌」)でないのは、山河の多い超伏に富んだ地形上の特徴から、狭軌である3.6フィートの方が経済的(同じ資金と能力でより長く敷設できる)だというのが一般的な通説となっている。しかし当時英国の技術的なトレンドとしてナローゲージ(狭軌)が技術者たちの関心を集めていたこと、特に北ウエールズ地方でナローゲージが成功したことなどが、全く無関係だったとは言えないだろう。

日本人による機関車生産へ

英国に頼りっぱなしの日本の鉄道のスタートだったが、徐々に日本人自身の手による鉄道発展がなされ始める。

1879年、日本人による機関車の運転開始。1880年、日本人の手で初めて建坂山トンネル建設。1884年、初めての私鉄開業。1889年、国鉄により東海道全線が開通。そして1893年、いよいよ日本人自身の手による機関車生産が開始された。

設計は日本鉄道の父と請えられる英国人リチャ−ド・フランシス・トレピシック(英国SLの父トレピシックの孫にあたる)である。記念すべき国産第1号機関車は、2−4−2「860型」と呼ばれ、フランスの鉄道績師アナトール・マレーによって開発された当時の最先端接術、コンパワンド(複)式か採り入れられた。この「860型」は1928年まで樺太鉄道で活躍した。

1896年には民間初の機関車製造会社も設立。1901年、太平洋例の諸都市を結ぶ日本列島横断鉄道の根幹として、山陽本線が開通。これによつて北は青森から南は下関まで、機関車で旅行できるようになった。

そして1906年、国営の路線と17の私鉄が統合され、国有鉄道が創立された。いよいよ日本の新しい鉄道史がここに始まることになる(余談となるが、このときの統合から洩れた数多くの私鉄の一部は、現在でも国鉄以上の主要幹線としての機能を保ち続けている)。

欧米諸国へ追いつく躍進

20世紀に入ると、日本の鉄道技術は飛躍的な進歩を見せる。1925年7月、すべての国鉄車両を運行休止にし、いままで使用の連結器が、フックカプラーから自動式ナックルカプラーに変更された。朝5時から夜7時までのノンストップの作業であり、新時代に向かう日本鉄道の意欲を感じさせる事業だった。

行政が何も決められない事の反省を踏まえ、「改軌の轍は踏まぬよう」という言葉があるそうです。そう言った訳で、日本でも戦前度々、「改軌」論争は繰り返されたようですが、結局の処、欧米の路線と異なり、日本は、狭軌(ナローゲージ:3.6in.=1067mm)で、樺太から台湾まで、全国の線路網を建設し続けた。というハンデのため、最高速度競争という点では、1964年、スタンダードゲージ(標準軌:4.85in.=1435mm)で敷設された新幹線誕生まで、他の先進国に遅れをとらざるを得なかった。しかし蒸気機関車の技術的な点で言えば、1920年代後半のC53、C57の高度な技術に見られるように、すでに欧米に肩を並べるまでのレベルに達していたと言ってよいだろう。中国大陸における満州鉄道会社では、スタンダードゲージの国際的な高速蒸気機関車を欧米まで走らせる計画さえ進んでいたのである。

しかしやがて徐々に日本は軍部中心の国政となっていく。1929年の世界大恐慌。1931年、日中戦争勃発。そして第二次世界大戦。日本の鉄道は高速型というよりミカド型、つまり貨物列車用大型機関車の需要へとその中心がシフトしていった。その代表格がD51であり、1936年から1945年までの間にこの機関車は1,115両という驚異的なベースで生産されたのである。

C62、日本SL最後の栄光

そして戦後、機関車需要はそれまでの貨物輸送から今度はー転して旅客輸送へと移行していった。そのための最新技術を採り入れ、特急用大型旅客機関車として発表されたのが、ハドソン型のC62である。しかしこの時点ですでに鉄道の電化計画は着々と進んでおり、さらに時代が求めるスピードアツプに応えていくためには、路線のスタンダードゲージへの修正は避けては通れない道となっていた。こうしてこのC62を最後に、日本の蒸気機関車の歴史も徐々に幕を閉じることになった。

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